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姫路の黒田官兵衛ゆかりの地

  • 国宝・世界文化遺産 姫路城をラベルにデザインした姫路城サイダー

姫路と黒田官兵衛ゆかりの地マップ

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広峯神社

広峯神社

姫路市の広峰山山頂にある神社です。
備前・福岡から姫路に移った官兵衛の祖父・黒田重隆は、広峯神社の御師(おし)が配る神符(おふだ)とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を成し、小寺氏に仕えて姫路城の城代となりました。現在も御師屋敷の建物が残っています。平安時代、都を襲った疫病を治めるため、祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に広峯神社の神(牛頭天王)を分祠したとされ、都大路を彩る祇園祭もそのルーツは広峯にあると言われています。

御師屋敷

当時の廣峯神社は、豪壮な土塀に囲まれ、社家が神社を囲むように点在し、どの屋敷も崖に面し、石垣を高々と積み上げた勇壮な構えでした。廣峯神社の御師たちは、神主を中心とする武家団という性格もあり、いざとなれば神社を本陣として34の御師屋敷を砦とし、敵を防ぐ自衛手段をとる方策もあったようで、どの社家も武張って見えました。現在は、二軒のみ当時の面影を僅かに残しています。

御着城址

御着城址

御着城は、赤松氏の一族で西播磨最大の領主であった小寺政隆(まさもと)の本城で、姫路市御国野町御着にありました。小寺政職にその才能を認められた官兵衛は、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えました。現在は公園になっており、御着城跡公園内には、黒田官兵衛の顕彰碑が建立されています。

黒田家廟所

黒田家廟所

御着城跡の一画には、官兵衛の祖父・重隆と生母・明石氏を祀る黒田家廟所が残っています。黒田家が福岡に移り、一時は寂れていましたが、黒田藩十代藩主斉清の手によって再建されました。小寺家とその家臣らを祀る小寺大明神と共に、毎年4月、黒田家と小寺家、天川家(小寺家の子孫)の関係者を招き、法要を営んでいます。

姫路城

姫路城

姫路市本町に位置する世界文化遺産・国宝姫路城。現在の姫路城は関ヶ原合戦の後に池田輝政が築いたものですが、『姫路城史』によれば黒田氏の時代にも官兵衛の祖父・重隆と父・職隆が築いた小さな城があり、官兵衛はここで天文15年(1546年)11月29日に誕生しました。

十字紋の鬼板

十字紋の鬼板

官兵衛は天正8年(1580年)に落城した三木城より、姫路城こそ中国攻めの拠点にふさわしいとして秀吉に明け渡し、秀吉は三重の望楼式天守を持つ姫路城を築城し、天下取りの足がかりとしました。
また、現在の姫路城の「にの門」の門櫓西面に十字紋の鬼瓦が使われており、キリシタン大名となった官兵衛にゆかりがあるという説もあります。

増位山随願寺

増位山随願寺

姫路市白国の増位山にある天台宗の寺院です。
官兵衛の叔父・黒田高友は僧となり、休夢と称して増位山の地蔵院に住みました。和歌に秀で、秀吉に仕えましたが、生母・明石氏とともに、文人官兵衛に大きな影響を与えました。
また、増位山は三木の別所長治との間でたびたび戦場となり、天正元年(1573年)に別所の軍勢が寺塔をことごとく破却しましたが、秀吉によって再興されました。

青山古戦場跡

青山古戦場跡

小寺氏を攻めようと青山に来襲した龍野城主・赤松政秀との古戦場跡です。官兵衛はこの初戦の地で、夜襲によって西へ追い返して撃ち破り、勇名を馳せました。「黒田官兵衛古戦場跡」と記された石碑のそばに、黒田家の家紋に描かれた藤の木や目薬の木を植えるなど、ゆかりの地として顕彰活動が続けられています。

書寫山圓教寺

書寫山圓教寺

三木城の別所長治の反乱により、姫路城にいた秀吉は別所氏と西の毛利氏に挟まれ窮地に陥りましたが、官兵衛の進言で書寫山に本陣を移し、危機を回避しました。
姫路市の書写山にある天台宗の寺院で、NHK大河ドラマや映画「ラストサムライ」のロケ地としても有名です。

国府山城址

国府山城址

姫路市飾磨区妻鹿にある国府山(功山)には、かつて姫路城を豊臣秀吉に明け渡した官兵衛が、父・職隆とともに移り住んだ国府山城(こうやまじょう)がありました。妻鹿城(めがじょう)、甲山城とも呼ばれます。

黒田職隆廟所

黒田職隆廟所

官兵衛の父・職隆(もとたか)は、君主・小寺政職(まさもと)が家臣の反発を抑えてまで「小寺」姓と「職」の一字を与えて一門に迎えたほど、知略に長け、優秀で人望・忠義に篤い人物でしたが、天正13年(1585年)国府山城で没しました。国府山城南方に職隆の廟所があり、地元では今も「筑前さん」と呼ばれ親しまれています。官兵衛の祖父・重隆がこの地の豪族妻鹿氏の娘を娶っており、ゆかりが深く、職隆の没後420年となった平成17年以降、黒田職隆廟所で黒田家と親交の深い心光寺住職を招いて墓前祭を毎年営んでいます。

英賀城跡

英賀城跡

姫路市飾磨区英賀にあった英賀城は、播磨の守護大名であった赤松一族の城で、永享年間の初めに赤松祐和が築いたと言われます。嘉吉の乱の後に勢力を失い、没後は三木通近が在城しました。
以後、代々三木氏の居城となりましたが、戦国時代の後半、置塩城の赤松宗家の勢力が衰えると、天正8年(1580年)、秀吉により滅ぼされました。

英賀神社

英賀神社

英賀神社は、一大勢力を誇った三木氏を城主とした英賀城跡の一画にあります。
官兵衛の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説「播磨灘物語」では、毛利氏の応援を得た三木氏の軍勢を、官兵衛が巧みな戦術で破る場面が描かれ、英賀城は後に、官兵衛を中心とした羽柴秀吉の大軍に攻め落とされます。
境内には、「播磨灘物語」の文学碑が立ち、英賀城土塁跡が残されています。

姫路文学館

姫路文学館

姫路文学館には、「播磨灘物語」を書いた司馬遼太郎の記念室があり、多彩な関連資料を展示しています。司馬家は祖父の代まで姫路市に住み、その先祖は英賀城に籠城した英賀衆の1人とされ、官兵衛に敵対したといわれます。

松原八幡神社

松原八幡神社

秋季例大祭を「灘のけんか祭り」の通称で知られる松原八幡神社は、姫路市白浜町にあります。
羽柴秀吉がこの地を平定したときに、城南の芝原(今の姫路市豊沢町)に遷すように命じた神社です。そのとき、秀吉に、松原は由緒ある地だと諭しこの地での存続を懇願したのが官兵衛だといわれ、千石千貫といわれた社領をわずか六十石に減じられながらも、松原八幡神社はこの地で存続することができました。
また、官兵衛は天正12年に松原八幡宮を復興する際に、拝殿を寄進したと伝えられています。寄進された拝殿は、後に絵馬堂として移築され、昭和56年まで使用されていました。現在は、老朽化し解体され、新たに絵馬堂が新築されています。

播磨国総社

播磨国総社

姫路市総社本町に位置する射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は、播磨国総社(はりまのくにそうしゃ)であり、歴代姫路城主の崇敬を受けてきました。重隆の没後、家督を継いだ職隆も永禄10年(1567年)に総社の拝殿や表門を再建しました。天正12年(1584年)には制札を与えるなど、その保護に努めています。
60年に1度の一ツ山大祭、20年に1度の三ツ山大祭が有名です。

牛堂山国分寺

牛堂山国分寺

播磨国分寺跡の北にある真言宗のお寺。阿閇城の戦いの後、毛利の大軍が上月城を囲んだため、秀吉らは救援に赴きましたが、その隙に乗じて別所勢が姫路城を陥れようとしたため、官兵衛は急遽、姫路に引き返し、国分寺に拠って撃退したと伝えらています。

栗山四郎右衛門 出生地

栗山町由来記

姫路市栗山町に生まれ、有岡城に幽閉中の官兵衛を救出した栗山四郎右衛門の出生地です。栗山町には「栗山町由来記」の石碑があり、官兵衛臨終の際には後事を託されたと記されています。

広畑天満宮

姫路市広畑区にある広畑天満宮の境内には、作家・司馬遼太郎の祖父・福田惣八と父・福田是定の玉垣が残されています。また、福田惣八の出身地の由縁で、平成15年に「司馬遼太郎文学碑」が建立されました。

司馬遼太郎 祖父の生家

姫路市広畑区には、作家・司馬遼太郎の祖父・福田惣八が明治初年に大阪に出て行くまで住んでいた生家があります。

林田大庄屋旧三木家住宅

林田大庄屋

姫路市林田町の三木家は、英賀城主三木氏の出自と伝えられています。天正8年(1580年)、羽柴秀吉の播磨侵攻により英賀城が落城した際、一族は各地に逃れましたが、その時の城主・三木通秋の弟・定通が林田村に住み帰農し、江戸時代を通じて林田藩の大庄屋をつとめました。大庄屋は庄屋とは異なり、数ヶ村から10数ヶ村を管轄し、農民ではあるが名字帯刀を許され、格別の特権と扱いを受けました。

峰相山鶏足寺跡

太陽公園に再建された鶏足寺

峰相山鶏足寺はかつて姫路市石倉に存在した寺院です。天正6年7月、羽柴秀吉が尼子勝久、山中鹿之介らに守らせていた上月城が毛利方の手に落ちると、中国攻めの秀吉に抵抗した峰相山鶏足寺の衆徒が翌8月に蜂起し、秀吉の命を受けた官兵衛が寺を焼き討ちにしたといいます。平成の今では、峰相山山麓にあるテーマパーク「太陽公園」の施設の一部として再建されています。画像―wikipediaより―著作権者:白蛇の騎士さん

御茶屋鶴松亭跡(興浜丸亀藩陣屋跡)

鶴松亭跡

天正8年(1580年)、羽柴秀吉から揖東郡(いとうぐん・現在の姫路市網干区)一万石を賜った官兵衛が、沖之浜州の陣屋に秀吉を招待し大茶会を催したところ、大松に1羽の鶴が見事な巣をかけていました。その優美な光景を大いに喜んだ秀吉が、陣屋の名を「鶴松亭」とするよう命じたといわれています。

置塩城跡

置塩城跡

戦国期屈指の規模を誇る山城である置塩城は、播磨国守護であった赤松惣領家の城でした。赤松家は、官兵衛が仕えた小寺家の主家筋に当たりますが、次第に一族の内紛などで往時の勢力を失っていきます。
赤松則房のとき、羽柴秀吉が播磨入りしても、毛利方にくみする播磨国内の領主が多かったのですが、則房は秀吉に従って四国平定戦などに従軍し、阿波住吉へ移封されました。天正9年(1581年)、秀吉に接収された置塩城は破壊され、その部材の一部は姫路城の「とノ一門」などに移築されたといわれています。

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