• このエントリーをはてなブックマークに追加

姫路城の雑学・豆知識

  • 国宝・世界文化遺産 姫路城をラベルにデザインした姫路城サイダー

世界文化遺産であり国宝でもある姫路城の姫路城雑学・豆知識をご紹介します。

姫路城は日本初の世界文化遺産

姫路城は、法隆寺地域の仏教建造物とともに、1993年12月に日本で初めてユネスコの世界文化遺産として登録されました。

築城に要した人手と時間

現在の姫路城の姿になったのは、1601年着工の大改築からです。築城は1609年に完了していますので、実年数は8年、足掛け9年かかったことになります。動員された延べ人数は2,500万人以上と推定されています。

姫路城にいた侍の数

本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田氏時代で300石以上の武士が500人余りいたとされ、次の本多氏の頃には本多忠政の家来が700人以上、忠刻の家来が500人以上、足軽・小者まで加えると父子で約4,000人とされる。榊原氏時代で3,000人とされ、江戸時代末期、酒井氏が最後の城主であったころは2,200人ほどだったようです。

姫路城の門の数

にの門

wikipediaより―著作権者:663highlandさん

姫路城は典型的な平山城で、天守のある姫山と西の丸のある鷺山を中心として、その周囲の地形を利用し城下町を内包した総構えを形成しています。堀は姫山の北東麓を起点にして左回りに城北東部の野里まで総延長約12.5kmあり、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成しています。内堀で囲んだ1周目を内曲輪(うちくるわ)、中堀で囲んだ2周目を中曲輪(なかくるわ)、外堀で囲んだ3周目を外曲輪(そとくるわ)といい、外曲輪まで含めて昔は84の門がありましたが、現在は21の門が残っています。

姫路城の挾間(さま)の数

姫路城城壁の挾間

wikipediaより―著作権者:Takobouさん

挾間とは、城の塀などにある防御用の穴や窓のことで、戦闘時に鉄砲や弓矢で応戦するためのものです。姫路城城壁の狭間は、外側は狭く内側は広い構造になっており、内側にいる射ち手は動きやすく、敵は狙いづらいという工夫がされています。鉄砲狭間、矢狭間の数は、記録では3,125か所といわれています(※数字は典拠により若干異なります)。現在残っているのは内曲輪のものだけで、その数は997を数えます。

堀(ほり)の深さと幅

堀とは、敵兵の侵入を防ぐために掘られた溝です。姫路城では、最も幅の広い所で34.5m、平均幅20mで、深さは平均2.7m前後あります。

腹切丸

城主の住居のあった備前丸広場の東側石垣下に「腹切丸」と呼ばれる建物があります。この腹切丸は、正式には「帯郭櫓(たいかくやぐら)」といい、城の防御のための射撃などを行う場所として建てられたものですが、この建物の雰囲気や外観が切腹の場を連想させるので、いつの間にか、腹切丸という俗称で呼ばれるようになったようです。当時、罪人の切腹は屋敷内の庭先などで行われるのが通常であり、神聖な城内で、しかも城主の住居のあった備前丸にも近い場所で切腹が行われたとは考えにくいということです。

天守に近づけない内曲輪の仕掛け

姫路城の大きな特徴として、地形や縄張を生かした迷路のような内曲輪の通路があります。広くなったり狭くなったり曲がりくねったりして、天守へ容易に進めないようになっているのです。そしてそれは反撃の機会に繋がります。
まず菱の門をくぐった先で、正面の「いの門」からは本隊が迎え撃ち、背後の西の丸からは銃撃、一見行き止まりに見える東の「るの門」からも兵士が出撃して、敵兵を挟み撃ちにし、逃げ場を失った敵兵を三国濠へ追い落とします。
「いの門」をくぐり抜けた敵兵は、一見、近道に見えるが実は遠回りになる「ろの門」に誘導され、ろの門を抜けると右側には狭間があり、敵兵を狙い撃ちします。
「はの門」を抜けた敵兵は、続く「にの門」へ至る通路で天守に対してUターンさせられ、守り手側に背を向けなければ進めなくなります。そして「にの門」は、直角に曲がって進みにくく、いざという時に埋めてしまうことの出来る埋門です。
本丸の入り口になる「ほの門」は極端に狭い鉄扉で、これも埋めることができます。その後は、天守群の周りを一周しなければ大天守へ辿り着けません。
また、本丸から道が分かれ、敵兵は「への門」「ちの門」へと進みますが、実は油壁の裏の「水の一門」が近道なのです。しかし続く「水の二門」「水の三門」が下り坂なので、攻め上がろうとしている敵兵に、城外へ出てしまうかのような錯角を思わせるのです。
このように、姫路城には、敵兵の心理まで見抜いた様々な仕掛けがあります。

姫路城が23円50銭

明治維新期、廃藩置県により無用の長物となった各地のお城は、保存に莫大な費用がかかることから次々に売りに出されました。姫路城も例外ではなく、競売の結果、姫路市に住む神戸清一郎という人がわずか23円50銭で落札しました。ところが、落札したものの使い道はなし、取り壊しにも莫大な費用がかかるため、権利を放棄したということです。その後、姫路城は国宝になり、国の所有になりましたが、昭和2年に再び神戸氏の息子さんである神戸清吉さんから、「姫路城は父が23円50銭で買い取っているから自分のものだ」という訴えが出され、世間を驚かせましたが、この訴えは却下されました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加