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姫路城と黒田官兵衛

  • 国宝・世界文化遺産 姫路城をラベルにデザインした姫路城サイダー

黒田官兵衛

黒田孝高(官兵衛、如水)

黒田官兵衛(黒田孝高)は、天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれました。
永禄2年(1559年)に母親を亡くし、文学に耽溺したと言われています。永禄4年(1561年)に小寺政職の近習となり、永禄5年(1562年)、父と共に土豪を征伐して初陣を飾りました。また、この年から「小寺官兵衛」を名乗っています。
永禄7年(1564年)、室津の浦上清宗が婚礼当日に敵対する赤松政秀に攻められ、父・政宗とともに討たれる事件があり、清宗の妻を官兵衛の姉妹と見る向きもあります。永禄10年(1567年)頃、官兵衛は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となりました。また、従兄弟の明石則実との同盟を結びます。
永禄11年(1568年)9月、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃で会見、上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となります。翌12年(1569年)8月、義昭と誼を結んだ赤松政秀が、池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んできますが、官兵衛は奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功すします(青山・土器山の戦い)。政秀は浦上宗景に攻められ降伏しました。この後、三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が引かれ、義昭と信長の関係も疎遠になり始めます。
元亀4年(1573年)、包囲網は甲斐国の武田信玄の病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返します。4月、東播磨の三木城主・別所長治(安治の子)が攻めこんできます(印南野の戦い)。7月、内紛により三好氏の篠原長房が討死。9月、信長が浅井長政を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。翌2年、義昭は山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れます。
天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。信長から「圧切長谷部」(国宝。福岡市博物館蔵)という刀を授かります。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させます。一方で9月には、宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてきます。翌4年1月、丹波の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反します。
天正4年(1576年)5月、小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する播磨の三木通秋の所領である英賀に上陸させますが、官兵衛は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退けます(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送ります。
10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させました。官兵衛は一族を、父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の妻鹿・国府山城(功山・甲山(98m))に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになります。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長を生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城(但馬国)攻めに向かわせます(11月4日落城)。次いで秀吉本隊の赤松政範の上月城攻めに従い、佐用城(福原城)攻め(11月26日落城)へは竹中重治らと共に加わり先陣を務めています(上月城の戦い)。上月城は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた尼子勝久、山中幸盛ら尼子遺臣団が城代を任されました。―wikipediaより

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